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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第3節 gossip [13]




 やめよう。考えたって無駄だ。私が母親に引き取られた事実を変える事はできない。
 だが、立ち上がってはみたものの、何か目的があったワケではない。
 仕方なく緑茶を飲み干し、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けるとパックのミルクティー。きっと母の詩織が買ってきたのだ。
 いいや、どうせお母さんだって、私の買ってきたものを勝手に飲んだり食べたりしてるんだから。
 罪悪も感じず手に取ってしまう。
 だが、ストローを取ろうとして
「あれ?」
 ストローがない。
「不備品か? まったくもうっ」
 ブツブツ唸りながらそこらの引き出しを引っ張り出す。
「確かこの辺りに使ってないストローがあったような」
 とは言え、こういう物は、使わない時にはいつも目につくところを転がっているのに、いざ必要となると雲隠れにでもあったかのように姿を消してしまうもの。
 暗闇に目が慣れてしまったとは言え、やはり室内は暗い。狭い引き出しの中は、なお暗い。
「ないの? お母さん、使っちゃったのかなぁ?」
 せめて部屋の電気でも付ければ見つかるかもしれない。だが、ここまでくるともはや意地だ。真っ暗な部屋の中で、ガチャガチャと手当たりしだいにキッチンを引っ掻き回す。そうして、一つの引き出しの中身に手を止めた。
「なにこれ、通帳?」
 こんなところに? 無用心だな。
 手にとって、目を見張る。
 もう一冊。
 母親の収入がどれほどのものなのか、美鶴は正確には知らない。だが、それほどの大金を稼いできているワケではないだろう。そう、例えば、複数の銀行に分けて預金できるほどの金額など―――
「何よ、これ」
 手に取り、何気なくペラリと捲り、そうして美鶴は目を疑った。今度こそ部屋の電気を付けなければ。そう思うものの、身体がまったく動かない。
 何これ。何、この金額。
 美鶴が右手を口に添えた途端、バッと辺りを照りつけられる。明かりが目の前を(くら)まし、美鶴は思わず通帳をTシャツの裾に丸め込んだ。
「やだーっ! 何やってんの? こんな真っ暗なところで?」
 間抜けた声に厚化粧。コテコテと飾り付けられたハンドバックをブンッと振り回し、母が無遠慮に帰ってくる。
「こんな時間まで、何で起きてんの?」
 見ると時計は深夜の二時。詩織の帰宅時間には早すぎる。
 不審げな美鶴の視線を受けて、詩織はふふんと鼻を鳴らす。
「今日は金曜日なのに客の入りが悪くてさぁ。若い子に任せて帰ってきちゃった」
 そう言ってユラユラとキッチンに寄ってくる。上着の裾を不自然に押さえながらキッチンを離れる美鶴になどお構いなしで、冷蔵庫から発泡酒の缶を一本。開けると当時に飛び出す泡を喜ばしげに啜り、一口飲んで、満足げに声をあげる。
「あぁ ウマいっ! ねぇ、聡くんたち、来たんでしょ? いやん、会いたかったぁ」
 私は会わせたくありません。
 だいたい何? 娘が謹慎食らってんのに、あなたはどうしてそんなに明るいの?
 美鶴の処遇は昨日のうちに詩織にも連絡が入っていた。だが別段怒ることもなく、動揺も見せない。
「殴ってないんでしょ。きっとそのうち誤解も解けるわよ」
 なんてお気楽な発言。そんなふうに不真面目でその場しのぎ的な生き方をしてきたから、私の人生まで不安定になってしまったのだ。
 もっと真面目でマトモな人間が私を育ててくれていたなら―――
「あのさぁ」
 気付いた時には口を開いていた。
「なにぃ〜?」
 まるで踊るような、軽やかな足取りで部屋を移動し、リビングでカーテンを掴み、窓の外を見ながらのんびり答える。
「私のお父さんって、どこに居るの?」
 一瞬、空気が硬直した。
 と思ったのは美鶴だけか。振り返る詩織の頬には赤みがさし、ほろ酔いで締まり気のない態度はいつもと変わらない。
「なによぉ、突然」
 ヘラリと笑い、発泡酒を喉へ流し込む。
「知らないって前にも言ったでしょ。連絡も取れない。どこに居るのかなんて、てーんでわかんないのよ」
 まるでそれが当たり前であるかのように、それが何だと嘲るように、詩織はゲラゲラと声をあげて笑った。
 その姿に腹が立った。なんだか無性に許せなくなった。
 美鶴がどれほど悩んでいるのか、なんでこんな境遇に陥ってしまったのか、すべての元凶は誰なのか。
 この女は、それを欠片でも理解しているのか?
「ふざけないでよねっ!」
 バンッとテーブルに通帳を叩きつける。
「これは何?」
「どれどれ?」
 怒鳴る美鶴にも惚けた仕草で、ニョキっと通帳を覗き込む。そうして、しばらくの後に眉をしかめて、首を引っ込めた。
「やだ、アンタ、どこで見つけたの?」
「どこだっていいでしょ」
「あら怖い」
 美鶴の怒声にキョトンと返す。その態度がなお腹ただしい。
「惚けないでよねっ! 答えてよ。これは何? 何よこの金額?」
「金額?」
「そうよ。これ、いくら入ってると思ってるの?」
「あら、いくら?」
「こっちの通帳、五千万入ってるじゃないっ!」







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